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慰霊の森

2019.05.22 Wednesday

 

4/30です。

乳頭温泉をあとにし、盛岡市の方面を目指していました。

 

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【全日空機遭難者慰霊碑上り口】

 

12時10分。

辿り着いたのは「慰霊の森」です。

 

ここは、今から48年前の1971(昭和46)年に発生した全日空雫石衝突事故で犠牲となられた方を追悼し、

当時、世界最大とされたこの航空機事故の惨劇を後世へと伝えるとともに、このような惨劇が2度と起こらないよう、空の安全を祈念する場所です。

 

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【慰霊碑へと続く階段 

 

空 --- を含めた交通輸送機関 --- の安全を願ういち個人として、この場所へ足を運ばせていただきました。

 

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【慰霊碑へと続く階段◆

 

いつかは慰霊したいと思っていた場所でした。

しかし、唐突にこういう機会を得られるとも思っていませんでした。

 

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【慰霊碑へと続く階段】

 

今回の"プチ放浪"に当たり、この場所は5/1に訪ねたいと思っていました。

しかし、私のリサーチ不足から、この日のこの時間に足を運ぶこととなってしまいました。

 

私としては、この場所へ足を運ぶに当たっての心構えと言いますか、気の持ちようというものがありましたので、

例え行程が変わったからとはいえ、結果として"ついで"のような形で足を運ぶことについてはいかがなものかと思う節がありました。

 

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【慰霊碑へと続く階段ぁ

 

逆に、行程のみ変更となっただけで、当初の予定どおり…と割り切ってしまえばそれまでな訳で。

そこは自分自身の考え方ひとつではあるのですが、何となく気の持ちようが"万全"ではないという感は否めませんでした。

それでいて、「この機会を逃したら、次はいつになったら来られるのか」という気持ちが背中を押した部分もありました。

 

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【急な階段を上り終え、しばし続く平坦な道のり】

 

お焼香の準備もないまま、慰霊碑へと向かっていました。

上空8,500m付近で自衛隊の訓練機と接触し、操縦機能を喪失した末に空中分解。

その機体の破片や乗客乗員の方々が落下した場所です。

そんな場所に何の準備もなく足を運んでしまった訳ですが、ただ1点、慰霊の気持ちのみは忘れずにいたということで

場違いであったのかも知れませんが、こういう人間もいたということにつきましてご容赦いただければと思います。

 

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【さらに続く階段 

 

事故が発生したのは、私が生まれるよりももっと以前のことです。

私が飛行機を"怖い"と思うようになったのが、あのJAL123便墜落事故でした。

その事故を色々と調べる過程で知ったのが、この雫石上空での事故でした。

 

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【さらに続く階段◆

 

事故が発生したのは、1971(昭和46)年7月30日です。

千歳空港を離陸し、羽田空港へと向かっていた全日空機と自衛隊の訓練機が空中で接触したのは14時02分39分頃です。

 

事故調査報告書によれば、

「接触時の真対気速度は、全日空機は約487ノット(マッハ約0.79=時速約902キロメートル)、

訓練機は約433ノット(マッハ約0.70=時速約802キロメートル)ないし約457ノット(マッハ約0.74=時速約846キロメートル)と推定される。」

「接触時における両機の進行方向は前方において交差し、そのなす角は5度ないし10度と推定され、また接触時における訓練機の降下角は小さかった

推定される。」

「接触時の姿勢は、全日空機は水平であり、訓練機は左バンク40度ないし60度であったと推定される。」

としています。

 

訓練機が全日空機の存在を認め、左側へ回避しようと旋回を試みたところへ後方から全日空機が接触した形になっています。

 

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【さらに続く階段】

 

また、

「接触は、訓練機の右主翼後縁と全日空機の左水平尾翼の前縁からはじまり、

この接触により訓練機の右主脚取付け部付近の剛構造によって全日空機の左水平尾翼の前桁、後桁、昇降舵等が順次破壊された。

その後、訓練機は機首を右に振り、その機首底部が全日空機の垂直尾翼上部左側に接触し、両機の接触部付近の構造が破壊された。」 

としています。

 

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【全日空機遭難者慰霊碑】

 

さらに、総括するような形として、

「(中略)上記の破壊が始まった後、訓練機は機首を右に振り、機首底部が全日空機の垂直尾翼上部安定板ステーション230付近の左側面と接触し、

両機の接触部付近の構造が破壊されたと認められる。この間に、訓練機の左主翼もまた異常な姿勢による空気力と慣性力とにより損傷を受けたと推定される。

なお、上記2カ所の接触以外には、両機の接触および擦傷の形跡は認められなかった。」

「訓練機は、右主翼が分離し、かつ、機首底部が破壊した状態で全日空機の後方へ抜け出て、以後異常な姿勢となって落下したものと推定される。」

「全日空機は、左水平尾翼および垂直尾翼上部が破壊されたことにより、残った水平尾翼部分も分離した。

また、垂直尾翼の胴体取付部は垂直尾翼が右に倒れる方向に破損し、垂直尾翼もまた短時のうちに分離するに至ったと推定される。

全日空機は、尾翼を失って操縦不能となると同時に、水平尾翼による機体機首上げモーメントを失なったため、次第に負の迎え角を増すに至ったと推定される。」

「全日空機の主翼は、負の迎え角の増大により下向きの大きな空気力を受け、その反力として胴体には大きな上曲げの慣性力が生じた。

これらの力が機体の強度限界に達した時点で、主翼は下曲げの方向に、胴体は上曲げの上向に破壊した。

これらの破壊は、接触後約25秒までに起こったものと考えられる。」

としています。 

 

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【慰霊堂 防衛庁長官 坂田道太】

 

もう1点。CVRの解析においては、

「"エマージェンシー、エマージェンシー"と聴取される。(中略)その後は絶叫と受けとれる音声が聴取されるが解読不能である。

なお、絶叫と受けとれる部分において、音声の基本周波数が急激に上昇していることからみて、この時点で事態が急激に悪化したと考えられる。」

「(中略)音声は、全日空機操縦者と親しい若干名の機長ないし関係者に聴かせたところ、全日空機機長のものであると認めた。」 

としています。 

 

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【航空安全祈念の党へと続く道 

 

事故調査報告書の内容を踏まえると、

機長からの緊急通信は接触から約9秒後であり、その後、空中分解に至るまでの16秒間で3,500mも下降したことになります。

平均すると、1秒間に約280mという凄まじい速度で落下していたことになります。

これは、コックピットにいた操縦士や機関士のみならず、乗客や客室乗務員にも"異常"と感じるに余りある事態だったものと思います。

もしくは、何が起きたのか理解もできない状況だったのではないかと思います。

そして、機体は音速の壁を越え、空中分解。

この時のソニックブームは、約20km離れた盛岡市の病院の屋上においても確認されたそうです。

 

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【航空安全祈念の党へと続く道◆

 

航空機事故については、その大多数が「クリティカル・イレブン・ミニッツ」に集中していると言われていますが、

この事故については、全日空は巡航高度に達し、水平 --- 安定 --- 飛行の最中に突如発生した事故でした。

CVRに残る機長の最後の言葉からも伺えますが、搭乗されていた皆さまのその瞬間を思うと心が痛みます。

 

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【航空安全祈念の塔 三木武夫書】

 

謹んで、

この場をお借りして、

この事故で犠牲となられた方には、ご冥福をお祈りいたします。

また、この事故のご遺族の皆さまには、心よりお悔やみを申し上げるところです。

 

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【水仙の花】

 

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【桜の花】

 

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【帰路】

 

降りしきる雨の中、手短に慰霊を終えて帰途に就きます。

若いカップルとすれ違いました。

 

日本の航空機に限れば、1985年以来34年間 --- 全日空機に限れば、この雫石における事故以来48年間、乗客に死者を出す事故は発生していません。

しかしながら、記憶に新しいところでは、4月に航空自衛隊の最新ステルス戦闘機が訓練中に消息不明となるなど、空の事故は「0」となはっていません。

 

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【全日空機遭難者慰霊碑】

 

この墜落事故から30年以上が経過した2000年代に入り、この場所から新たに全日空機の残骸等が多数発見され、回収されています。

これらの残骸は保管されるとともに、ANAグループ安全教育センターにおいて「事故の記憶を風化させない」ための貴重な資料となっています。

日本航空の安全啓発センターとあわせ、いつか足を運びたいと考えて久しいところです。

たいへんおこがましいですが、私自身も「事故の記憶を風化させない」ことについて、何かしら出来ることがあればとずっと考えています。

 

上り口まで戻ってきました。

慰霊碑の背面には「富士市」の文字が見えます。

静岡県富士市は雫石町と友好都市の関係にありますが、そのきっかけとなったのがこの事故なんだそうです。

この事故で犠牲となった162人のうち、125人が富士市民であったことから、

事故から42後の2013年、両市町は、ご遺族とともに、犠牲者の慰霊を通じ今日までの長い年月を歩んできたんだそうです。

また、2020年に50周忌をむかえるにあたり、今年度中に老朽化した航空安全祈念塔の解体・新築や慰霊堂の改修を含めた大規模改修が実施されます。

現在、「慰霊の森」は、同町町長が理事長を務める一般財団法人慰霊の森が管理しており、犠牲者の慰霊と惨劇を後世へと伝える取り組みは続きます。

 

最後に、全日空機遭難者慰霊碑に記された全文を転載させていただきますとともに、

私自身も、改めてこの事故で犠牲となられた方へお悔やみを申し上げますとともに、空の安全への祈りを捧げたいと思います。

 

「とき 昭和四十六年七月三十日午後二時五分頃 緑の山々に囲まれた平和で豊かな田園のまち

ここ雫石の空に突如轟音とともに全日空機五八便七二七型機と航空自衛隊機第一航空団松島派遣隊所属F八六Fジェット戦闘機の空中衝突事故が発生

北海道からの帰途 乗客一六二名の尊い命が一瞬にしてつゆあけの夏空に散った

世界民間航空史上最大の事故といわれ 国内は勿論 世界の人心を驚愕させた惨状は実に筆舌に尽くし難く 山気溢れるなかで遺体の捜索は困難を極め

肉親を求める悲しき遺族の叫びは ここ岩名目山の森にこだましてさながら地獄の様相を呈し

唯呆然と涙さえ枯れ果てたあの生々しき悪夢は忘れることができない

これらの多くの人々を恐怖と悲しみの淵に沈めた惨事は発生以来岩手県 雫石町 盛岡市をはじめ 静岡県 富士市 関係諸機関

地域住民すべての人々の涙ぐましい善意と人間愛に満ちた犠牲的奉仕の姿は 永久に遺族の胸中から消えさせることはない」

「ここに 再びこの過ちと悲しみを繰り返すことなきを乞い願うとともにこの聖地に静かなる平和がよみがえり

在天の諸霊が永遠に安らかに眠られんことを祈念し 慰霊の碑を建立する」

 

昭和四十七年七月三十日 全日空機遭難者遺族会

 

 

 

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